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日付:2026年08月25日 (火) 11:16
新潟秘密基地物語 第二章:心が動き出す夜 第18話『彼にだけみせる涙』
新潟秘密基地物語 第18話
― 彼にだけ見せる涙 ―
「泣くつもりなんて、なかった。」
あの夜のことを思い出すたび、
今でもそう思う。
ただ、いつものように彼に会って。
いつものように笑って。
少し癒されて。
「またね」と言って帰る。
そんな夜になるはずだった。
―なのに。
彼のたった一言で、
ずっと閉じ込めていたものが、
全部溢れてしまった。
その日は朝から最悪だった。
仕事で理不尽なことを言われても、
私は笑って「大丈夫です」と答えた。
本当は悔しかった。
誰かに気づいてほしかった。
でも、大人になると、
泣く場所を選ばなければならない。
職場では泣けない。
家に帰れば、
またいつもの自分に戻らなければならない。
だから私は、
何事もなかったような顔で一日を終えた。
そして夜。
気づけば私は、
彼に会いに向かっていた。
扉をノックする。
「こんばんは。」
彼の顔を見た瞬間、
なぜだろう。
それだけで、
泣きそうになった。
「お疲れさまです。」
いつもと同じ声。
いつもと同じ笑顔。
私は慌てて笑った。
「お疲れさま。」
ちゃんと笑えている。
そう思った。
でも彼は、
ほんの少しだけ私の顔を見つめた。
そして何も聞かずに、
「入ってください。」
そう言った。
いつもの部屋。
いつもの香り。
いつもの彼。
それなのに、
その日はなぜか、
すべてが優しすぎた。
「今日は静かですね。」
施術の準備をしながら、
彼が言った。
「疲れてるだけ。」
私は笑って答える。
まただ。
また「大丈夫な私」を演じている。
施術が始まる。
温かい手が肩に触れる。
ゆっくりと、
固くなった身体がほどけていく。
彼は何も聞かなかった。
「何があったんですか?」
とも言わない。
「元気出してください。」
とも言わない。
ただ黙って、
いつもより少しだけゆっくり、
私に触れてくれていた。
その優しさが、
今日は苦しかった。
しばらくして、
彼がぽつりと言った。
「今日は、頑張らなくていいですよ。」
その瞬間だった。
胸の奥で、
何かが切れた。
「……そんなこと言わないで。」
自分でも驚くほど、
小さな声だった。
彼の手が止まる。
「どうしました?」
「そんなこと言われたら……」
その先が言えなかった。
涙が一粒、
頬を伝ったから。
慌てて顔を隠す。
「ごめん。」
どうして謝ったのか、
自分でもわからない。
泣いてしまったことが恥ずかしかった。
弱い自分を見せてしまったことが、
怖かった。
「ごめんね。今日なんか変だね。」
笑おうとした。
でも声が震える。
すると彼は、
とても静かな声で言った。
「謝らなくていいですよ。」
その一言で、
もう無理だった。
涙が止まらなくなった。
今日のことだけじゃない。
ずっと我慢していたこと。
誰にも言えなかった寂しさ。
大丈夫なふりをしてきた日々。
「私がやらなきゃ」
「迷惑かけちゃいけない」
「ちゃんとしてなきゃ」
そんな言葉で押し込めてきたものが、
一気に溢れ出した。
「私ね……」
声が震える。
「たまに、全部嫌になるの。」
彼は黙って聞いている。
「別に大変な人生じゃないと思う。」
「もっと大変な人もいるし……」
「だから、こんなことで疲れたって言っちゃいけない気がして。」
彼は何も否定しなかった。
ただ静かに、
私の言葉を待っていた。
「でも……」
涙がまた落ちる。
「誰かに、大丈夫?って聞いてほしかった。」
やっと言えた。
ずっと欲しかった言葉。
本当は、
誰かに気づいてほしかった。
頑張っていることも。
疲れていることも。
寂しいことも。
少しの沈黙のあと、
彼が言った。
「じゃあ、聞きますね。」
私は涙のまま、
彼を見る。
彼の目は、
いつもと同じように優しかった。
「大丈夫ですか?」
たった五文字。
なのに。
また涙が溢れた。
私は首を横に振った。
初めてだった。
「大丈夫?」と聞かれて、
「大丈夫じゃない」と、
言葉ではなくても答えられたのは。
彼は無理に励まさなかった。
答えも出そうとしなかった。
ただそばにいてくれた。
それが、
何より嬉しかった。
人は弱っているとき、
正しい言葉が欲しいわけじゃないのかもしれない。
「頑張って。」
「気にしないで。」
「もっと大変な人もいるよ。」
そんな言葉ではなくて。
ただ、
「ここにいていいよ」
そう思わせてくれる人が、
必要なのかもしれない。
しばらくすると、
涙は自然と止まった。
「……恥ずかしい。」
私が呟くと、
彼は少し笑った。
「どうしてですか?」
「こんなに泣く予定じゃなかったから。」
すると彼は、
いつもの柔らかな表情で言った。
「予定して泣く人なんて、いないですよ。」
思わず笑ってしまった。
泣きながら笑うなんて、
いつ以来だろう。
施術が終わる頃。
身体だけじゃなく、
心まで空っぽになったような感覚があった。
でも、その空っぽは、
寂しいものではなかった。
ずっと抱えていた重たいものを、
ようやく下ろせたような軽さだった。
帰り支度をする。
鏡を見ると、
目は少し赤い。
「ひどい顔。」
そう言うと、
彼が笑った。
「来たときより、いい顔してますよ。」
「本当に?」
「本当に。」
また目が合う。
いつもなら、
ドキドキして目を逸らしてしまう。
でもその日は、
少しだけ長く見つめることができた。
「今日のこと……忘れて。」
冗談っぽく言った。
彼は少し考えるような顔をしてから答えた。
「それは無理かもしれません。」
胸が跳ねる。
「え?」
彼は優しく笑った。
「でも、誰にも言いません。」
「ここだけの秘密です。」
その言葉に、
胸の奥が温かくなる。
秘密。
誰にも見せなかった私。
誰にも見せられなかった涙。
それを知っている人が、
この世界に一人だけいる。
不思議だった。
恥ずかしいはずなのに、
少し嬉しかった。
ドアの前。
彼がいつものように言う。
「また、お待ちしています。」
私は頷いた。
そして少し迷ってから、
「……また泣いてもいい?」
そう聞いた。
彼は一瞬驚いて、
それから笑った。
「もちろん。」
「でも次は、笑わせます。」
その言葉に、
胸がきゅっとなる。
私は笑った。
「じゃあ、期待してる。」
外へ出ると、
夜の空気が気持ちよかった。
深く息を吸う。
世界は何も変わっていない。
明日になれば、
また仕事がある。
嫌なことだって、
きっとある。
それでも。
昨日までの私とは、
少しだけ違う気がした。
弱くなってもいい場所を、
知ってしまったから。
泣いても嫌われないことを、
知ってしまったから。
そして―
「大丈夫じゃない」と言える相手がいることを、
知ってしまったから。
彼にだけ見せる涙
泣くことは、
弱さじゃない。
誰かの前で泣けることは、
その人を信じられた証なのかもしれない。
笑顔だけを見せる関係より、
涙まで預けられる関係のほうが、
ずっと心に残ることもある。
新潟秘密基地―
そこは、
「大丈夫」と言えない夜にも、
帰ってこられる場所。
誰にも見せられなかった自分を、
そっと置いていける場所。
あの夜、彼が癒してくれたのは、
疲れた身体だけじゃなかった。
ずっと一人で守ってきた、
私の心だった。

次回予告 第19話
― 沈黙が心地いい夜 ―
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